10:別れて出会う -おわりからはじまりへ



    春くれば

     花ぞさくなる

    木の葉みな

     ちりてあとなき

    山のこずえに



 いやはや、早いもので今年ももう三月、春の暦ですね。春といえば、別れと出会い。卒業、進級進学、職場の異動などに伴い、これまでの環境や関わってきた人たちと別れたり、新しく出会ったりする季節です。
そんなことを思い巡らしていたら、冒頭の和歌が浮かんできました。といっても、私が詠んだ訳ではありません(残念ながらそのような素敵な才は備わってないので…)。
 この歌は、初詣で引いたおみくじにしたためられていたものです。とてもシンプルかつ明快におみくじらしい励ましが込められている歌でしょう? 直訳すると、「春が来れば花も咲くだろう。葉もすべて散り、何もなくなってしまった山のこずえにも」という意味でしょうかね…。
 荒涼とした冬から花も緑も萌え出る春への移り変わりと、失いびとが絶望と空虚の世界から、ふたたび喜びやしあわせを見出そうとしていく、そんなこころの変化とが重ね見えるように感じます。

 ちょっと話が前後しますが、おみくじは京都の野宮神社という神社で引きました。つい先日、京都を訪れた際に嵐山・嵯峨野辺りをまわり、たまたま通りかかった神社でした。
 黒木の渋い鳥居に惹かれて、「遅まきながら初詣でも…」とお参り。平日のうえ、小さな神社なのに結構人が多いなあと思ったら、実はあの『源氏物語』(著者:紫式部)で、光源氏と六条御息所の別れの舞台となった有名な神社でした。
あえて説明の必要もないかと思いますが、源氏物語は、光源氏の恋愛―女性たちとの出会いと別れを通して、愛することの喜びと苦しみ、哀しみが描かれている物語です。

 さて、源氏の華々しい恋の遍歴には、豊かな情熱だけでなく、死別した母を探し求め続けるという幼子の想いが根底にあるように思われます。
 彼の初恋であり生涯忘れ得なかった藤壺の宮は、母と生き写しの女性でした。また、最愛の妻であった紫の上もまた藤壺の宮と生き写し、つまり母とも生き写しの女性です。姿形の美しさだけでなく、それぞれに心映えも優れた女性として描かれています。
 そのような理想的な女性の愛を得ても、彼のこころは完全には満たされませんでした。自分でも理由が分からないまま、強い憧れの気持ちを抱かせてくれる相手をまた求めてしまいます。その相手とは、もはや会うことのかなわない亡き母そのものだったのでしょう。母への愛着やその死をめぐる悲しみや怒りといった複雑な思いが消化されずこころに沈殿したため、彼は母と別れられないまま恋にさ迷い続けたとも考えられます。
 紫の上が病死した時、彼はいわゆるうつ状態になります。約一年もの長い間、屋敷にこもり、無気力に季節をただ過ごしました。しかし、やがて紫の上や他の女性たちとの思い出を振り返り始めます。そして、自分がどのように愛し愛されていたか、傷つき傷つけてきたか、深く感謝したり後悔の念を抱いたりしながら、ふたたび生きる気力を取り戻していきます。
このこころの過程は、紫の上を失った悲しみだけでなく、間接的にしろ、ようやく母との別れを悼み、悲しんだうえで失ったことを受け入れて生きていくことを選ぶ過程にもなったのではないでしょうか。

 愛する人にかぎらず、自分にとって大切な何かを失った時、人によってはかなり長い期間、途方もない虚しさや苦しさに取り憑かれてしまうことがあります。時には、その苦しさに衝き動かされて、人生をさ迷うこともあるでしょう。あるいは、まるで自分のこころまで失われてしまったかのような状態になることもあるでしょう。そこでは絶望しか感じられず、自分は生きる価値もないなどと空虚に思ったりするかもしれません。
 それでももし、何も見えない冬の暗闇から脱け出したいと、かすかにでも希望を求めるならば、こころにふたたび春を迎える可能性は芽生えます-いつの日か自分なりの花を咲かせられるように。

  心理療法も、そのための手立てのひとつなのです。



( O
2011.03.01

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