11:怒ることで起こること その1

―「いやはや、丸くなったよ」って笑ってりゃ、そりゃ酒もやさしくなるさ。

だけど俺はやめたんだ、そういうのはもうやめたんだ―

竹原ピストル ”オールドルーキー”より

01「話すこと・泣くことの効用」のコラムに続いて今回はさらに話を進めて“怒ること”について考えてみます。長くなりそうなので何回かに分けてゆっくりと書くつもりです。

“怒り”はなかなか取りあつかいの難しい感情です。イライラしたり、何かを壊したくなったり、誰かにぶつけたくなるような気持ち。それは、時に人を傷つけたり、自分を傷つけたりといった破壊的な力をもつ感情でもあるからです。

怒りの感情?そんなのは全くないよ、という幸せな方もいるかもしれません。

しかし、私の感覚では自分の生き方と自分の感覚をもち、対人関係を営んでいる限り、怒りの感情は不可避なもののように思います。なぜなら、怒りは、相手や世界に対しての期待や思いがなければ生じ得ない感情だと思われるからです。

たとえばサッカーの日本代表が不甲斐ない試合をした時に、それに対して怒るのはそれだけそこに愛情や思い入れがあるということでしょう。全く愛情や思い入れのないチームや人物の勝ち負けに私たちは特に何も感じずに通り過ぎるはずです。もちろん、思い入れのある人やチームが大躍進をした時はまるで我が事のように歓喜を感じるわけです。どうでもいいものに対しては私たちは怒りも喜びも感じないはずです。

ちなみに私の場合広島カープの負けがこんでくると、プロ野球中継を見る気がしなくなり、クサクサした気持ちで毎日を過ごします。・・・・すなわちここ数年はそういう気持ちです。・・・・まったくもう!!開幕ダッシュで今年こそは!と思っても必ず夏場になると・・・・・・。

サッカーや野球のたとえはいささか柔らかすぎる感じがいたしますが、少し伝わったでしょうか?

つまり、私達が「~に怒っている」というとき、その対象に対して実はこころのつながりがある、それ故に不満を感じて”怒る”ということが言えるのではないでしょうか?その対象が自分の期待や思いに応えてくれないから、私たちは怒り始めるのです。時にその怒りが強く、その対象に対してつながりの感覚や愛情をもっていたことも忘れ去ってしまっているにしてもです。

皆さんが怒っている相手(人かもしれないし、家族かしれないし、組織かもしれないですが)を思い浮かべてみて下さい。その人などに対して、本当は、というか、本来は期待や思い、すなわちつながりを求める情緒があるのではないか?

実際に怒っている今現在はその相手が嫌いで、二度と顔をみたくない!という思いに支配されていても、その背後にはそのような「愛情!?」のようなものがある(あった)のではないか?これがこのコラムの出発点です。

付け足しておきますが、突然全く見ず知らずの人などから攻撃や事故などの理不尽なことに遭ってしまって、それに“怒る”というのは至極当然のことです。しかし、この場合でもよく考えてみると「人全般」や「世界」という、信じていた(信じたい)ものや愛情を感じていたいものを、壊され、損なわれてしまったことへの怒りととらえることができるように思います。

とりあえず1つの結論です。

怒りが向いている時には、その対象への愛情や期待が、たとえ見えなくなっていたとしても存在している。

さて、こんなある意味では当たり前のことを何故検討しているのか?

それは、時に私たちは強い怒りに我を忘れてしまったり、逆に、怒りがあってもそれを封じ込めてしまったりなどと、怒りに囚われてしまうことがあまりにも多いからです。怒りの感情はもっている本人にとってもひどく辛く、そのことによってこころを蝕むことすらあります。皆さんもひどい怒りの感情を、どうにもやりきれないこころの痛みの感覚として感じることがあるのではないでしょうか?

私は、この愛情や求める気持ちと対になって存在している“怒り”という感情や感覚がとても大切なのだということをゆっくりとしかしつくづくと実感するようになってきました。

どう大切なのでしょうか?それは、その2につづくこととします。しばらくお待ちください。

(岩倉)

2011.03.06