42:自転車に乗れるようになった日

みなさんはいつ自転車に乗れるようになったのでしょうか?子どもの頃、自転車に乗る練習をしたことを覚えていますか?

乗れてしまえば何の苦労もないのですが、その渦中にある子どもにとってはとてつもない困難であるように感じられています。

自転車に乗れるようになると、子どもたちの行動範囲は格段に広がります。また、自転車で走れなければ、仲間に入れず悔しい思いをするものです。「私だって」というプライドや期待、希望、新しいことにチャレンジする楽しみももちろんあります。

しかし、どんなにやる気満々で始めても、挫けそうになることもあるかもしれません。

今まであったはずの補助輪が取り外され、不安定な自転車にまたがれば「こんなんじゃ立てない、走れない!」という不安や恐怖にも駆られるでしょう。どんなに頑張っても両足をペダルに置ける気がしません。こういうとき、「どうしたら二輪で走れるのか?」と頭をひねってみてもなかなかうまくいかないものです。

子どもたちは親の助けを得て、試行錯誤を重ねます。親の支えを信じて、思い切って漕ぎ出してみます。うまくいかなくて転んで痛い思いをして泣いたり、イライラして親に八つ当たりしてみたり、やる気の萎えたところを励まされたり、希望が見えて嬉しくなったり、そうかと思えば逆戻りしたり…。ささやかながらも悲喜こもごものドラマが展開されます。

そして大概、乗れるようになる瞬間は、なんでもないときに「あれ?乗れてる!」といった具合に突然にやってきます。気が付いたら乗れるようになっていた、という感じかもしれません。どうして乗れるようになったのか、なんて野暮なことは訊いてはいけません。こどもたちは「頑張ったね!」という賞賛の声に応えるように、「乗れたよー!」と鼻高々に自転車を乗り回すことでしょう。「私が」「僕が」頑張ったから乗れるようになったのです。

その背景に、シルエットのように浮かび上がる、自転車を支えてくれていた親の姿に気づくのは、ずーっとずーっと後のことなのかもしれません。親は、安全に練習できる環境を確保し、どんなに腰が痛くなっても、自転車の荷台を支える手を離さないよう踏ん張ります。子どもが膝小僧をすりむいたら、手当をします。子どもに八つ当たりされて、時には辟易として親子ゲンカをするかもしれません。そんなやりとりがあったことなんて、乗れてしまえば子どもたちの頭からは消え去ってしまいます。でも、子どもたちの心の成長がその“証”として残っている、そういうことなのかもしれません。

さて、私たちがお会いしているクライアントさんの中にも、「自立」の課題を前に思い悩む方々がいます。「自立」の課題は子どもや青年だけの専売特許ではありません。心理的な意味での(親からの)分離、自立には、大方の“おとな”が何らかの屈託を残していると言ってもいいかもしれません。

そうした難儀な課題について、心理療法はその作業に取り組む体験的な場となります。

思い悩みを抱えるクライアントさんの「どうしたら自立できるの?自立するってどういうこと?自活すること?仕事をすること?」という問いかけを前に、私はふと、この「自転車に乗れるようになった日」のことを想うのでした。

(Y)

2013.10.01