26:病は気から?気は病から?

『病は気から』

・・・病気は気の持ち方ひとつで、よくもなり悪くもなる(広辞苑)、という意味ですね。

今日ここでは、ちょっと視点を変えて、『気は病から』ということについて書いてみたいと思います。

数々の新薬が生みだされ、新しい医療技術が開発され、現代の医学の進歩には目を見張るものがありますね。医学の新たな発見について、新聞やニュースで目にしない日はないと言っても良いくらいです。以前は不治の病とされたガンにしても、早期発見・早期治療で治る病気として位置づけられつつあります。

しかし、それでも医学の力が及ばない、つまり、現段階では治らない病気は数多くあります。世の中には、治療薬の開発・実現を心待ちにしている人が多くいるのです。

その病気が進行性のものであった場合、彼らの心の痛みはとても深刻です。

今日やっとの思いでできたことが、この先いつまでできるか、わかりません。昨日できていたことが、明日はできなくなるかもしれません。努力していたことをふと休んだら、何もかも悪化するかもしれません。

私たちのこころは、自分にとって受け入れがたい気持ちを和らげたり、押し隠したり、合理的な姿に塗り替えたりする機能を持っています。こうした機能によって、こころが危機的状況に陥って壊れてしまうことから身を守るのです。

しかし、進行性の病気と闘う方のこころはどうでしょうか。

自分の体が思うようにならない、正常な機能を果たさない。自分の体が語る‘現実’をどうすることもできません。こころは自衛の策を持ちますが、組織や機能を生理的に失った身体はどうすることもできません。どう頑張っても働かないものを働かせることはできないし、動かない部分を動かすことはできないのです。彼らは、この事実から目を背けることができません。これは、言葉にすることができないほど、辛く、恐ろしい局面だと思います。

私たち人間は、いや、我々生物はみな、限られた命を生きています。この世にこうして生き続けることは、生の時間を少しずつ失っているとも言いかえられるでしょう。その事実を私たちは忘れ忘れしながら生きています。その事実はとても厳しい事実でもあるので、こころから遠ざけているのです。

しかし、彼らの場合、この感覚が避けられないものとして常にあり、‘死’をいつも身近なものとして意識しつつ、‘生’を生きていかなければならないのです。

ですが・・・・。そのような病と直面している方々に寄り添いながら、人間の精神とは強いものだ、との思いを禁じえない瞬間があります。このような局面にあっても、彼らは生きていくのです。しかも、前を向いて。たとえ、以前のように食事が取れなくなっても、呼吸を機械に頼るようになっても、声を出すことができなくなっても。

彼らと出会うと、‘限られた命だからこそ、いかに豊かに、いかに自分らしく生を堪能するか’というテーマに常に向き合っているように感じます。そして、自分らしい姿とは何かを真摯に追い求めています。 「自分が今できることに目を向け、できることに感謝して生きていく」と教えてくれた方がありました。自分に残された機能を存分に生かして人生を歩んでいく、という意味でした。

そこには、決して苦しい生を生き抜く、という意味は含まれておらず、どのような姿であっても生きていることに満足を感じてより積極的に生きる、という信念と強さが感じられました。

まっすぐに心を打たれた言葉でした。この底力たるものが生を豊かにし、生を生き抜く原動力になるのかもしれないなぁ、とも感じました。

そして、もしかすると、人は、自分の生命の終わりや、可能性の限界というものを自覚したときに初めて、生命を大切にできるチャンスを得るのかもしれません。言い換えれば、常に死を意識するという強さなのでしょう。

私は、自分の弱さや欠如について認めていくこと、そして自分も限りある命を死に向かって生きているのだということを、いつも自覚できなくても・・・・、ピンときながら生きていくことをこころに誓いました。

このことを今、ここで言葉にしながら、すこし元気になっている私・・・・・・・

おや、やっぱり「病は気から」かもしれないですね。

(T)

2012.05.01