18:怒ることで起こること その2
さて、サボっていたコラムを少しずつ書き進めていくことにしましょう。
“怒ることで起こること その1”では怒ると言う感情は、つながりや愛情ないしは信頼の気持ちが背景にあるから発生するということを書きました。
ここで、もう一度立ち止まりましょう。怒りはどのような感覚で私たちに感知されるでしょうか?
イメージするために、こころとからだで考えるとこんな感じでしょうか?
―こころは、自分の思いや期待との違いや理不尽さにうち震えています。からだは、熱い、発火するような感覚を感じています。実際にはやらないまでも、手を振り回したいような、殴りつけたいような身体の感じがうっ積しているのを感じます。ちょうどあかちゃんが、手を振り回して何かを求めているような仕草です。その発火しそうな火薬のような身体感覚が怒りの要素なのでしょう。―
今回は、その怒りが湧いてきたときに私たちはどのように対処しているのかに注目しましょう。このような感覚が湧き上がってくるとき、あなたはどのようにそれを取り扱っていますか?
わたしは、その対処に2つの方向の極があるように思うのです。
まずは第1極
1 怒りの感情・感覚に目をつぶり、我慢して、なかったことにしていく内向き方向への極
この方向は、湧いてきた怒りを、感じても苦しいし、出しても無駄と判断して、それに目をつぶり、心の中におさめて、むしろそう感じている自分に非があるのではと自分を責めて、最後にはなかったことにしていくやり方です。
顔で笑って心で泣いて、そして最後にはまるで何事もなかったようにしていく、といった極への方向といえましょう。
そしてもう一方
2 怒りの感情や感覚を即座に外に出す、怒りを発散し、ぶつけていく外向き方向への極
こちらは、湧いてきた怒りを感じて、その苦しさを外の相手に出して、時には、そう感じさせた相手への怒りを増幅させて相手を責め、発散していくという方向の極です。怒ってる相手と喧嘩しながらすったもんだしていく方向ですね。
これらは、もちろん場面や相手によって2つの極の間を行き来すると思いますが、自分が大きな傾向としてどちらの極を使いやすいかはわかるのではないでしょうか?
これはどちらのほうがいいとかわるいという話ではありません。
対処法としては、 どちらかの極のやり方のみをいつも使うようにすると、それはそれで簡単でしょう。不快な怒りの感覚が生じたら、ひたすら我慢する、あるいは即座に当たり散らすということになります。それはパターンとして自動化されやすいのです。
ただ、このそれぞれの極はやりすぎると危険が伴います。 第1極の危険は自分に向きすぎて、自分を壊してしまう危険があります。自分を壊すというのは、過剰な自責やこころの麻痺があり得るでしょう。そして第2極の方は、相手を壊してしまう危険ですね。ぶつけすぎることによって相手との関係性を壊してしまうかもしれません。
ですから、その自動化の副作用は大きそうです。前者はいつも我慢してふらふらの愛想笑い、後者はいつも怒りんぼで、だんだんと周囲から距離を置かれて独りぼっち・・・。
本来は愛情や信頼を求めている故に生じる怒りに振り回されて、人とのつながりを失い,損ってしまう・・・・、それでは本末転倒な悲しい結末です。
わたしは、実は怒りは、こと斯様に取扱いの難しいものであると考えています。とても大切なものなのですが、取扱いを間違うとこのような結果も招きかねないものです。それは時に、失感情という心の死や、復讐の連鎖や強い恨みをもたらすことすらあると考えています。
どうすればいいかが知りたくなりますが、それを考える前に確認しておきましょう。
愛情や信頼があるから、怒りは湧く。それは自然なことで避けられない。
しかし、その怒りは我慢しすぎても出しすぎても、自分や相手を損なう危険がある。
言い換えれば
愛する・求めるものへの強い怒りは、結果として相手を損ない失う危険がある。つまり、愛するものを壊してしまう。
一方で、それを怖れて怒りをなかったことにすると自分が損なわれる。つまり、自分が心理的に死んでしまう。
そして、愛情が深ければ深いほど、求める力が強いほど、怒りは強くなるはずです。つまり、この矛盾を孕んだ命題はつながりの深い関係においてさらに深刻なものになるはずです。
私は、この怒りに関する葛藤は人間の難しい矛盾の1つだと考えています。これは心理療法にじっくりと取り組んでいく中で、どこかで行きあたる、簡単ではないけれども、乗り越えなければいけない命題であると考えています。
今回はここまでにいたします。その3に続きます。
(岩倉)
2011.09.10