27:喪と対峙すること
人といかに交わり、憎しみ、和解し、愛し合うか
私たちの人生の大半はその課題に費やされる。見ず知らずの人であれ、友人であれ、肉親であれ、自己と他者との間に折り合いを見つけることは生易しいことではない。
そして、さらに高いハードルがある。それは死んだ人とどのように関係するかである。
他者を受け入れることのみならず、人の死を受け入れる作業は、自分自身のこころとどのように向かい合うかという難しい作業になる。特に愛する者を失くした場合、その死をいかに消化し、受け入れ、和解すべきか。喪失を受け入れるまでのこころのプロセスを、喪の作業と呼ぶ。
以下、死と喪失について、後世に残る洞察を記したEキューブラー・ロスの本より、喪の作業の難しさについて示唆を与えてくれる部分を要約・抜粋する。
死とは、人間にとって忌むべきことである。私たちは無意識のうちに「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」と思っているが、それは報いや罰を招くような悪い行い、恐ろしい出来事を連想させるからである。
無意識の中では願望と行為の区別がつかない。目覚めている時にはとても考えられないような不条理が夢ではまかり通ってしまう。無意識の中では、誰かを殺したいという怒りに満ちた願望と実際に人を殺す行為との区別はできない。
同様に幼児もまた区別ができない。母親に癇癪を起して「ママなんか死んじゃえ」と言った時点からずっと後になって母親が死んだとしても、自分のせいだと思い込む。幼児は親の死をめったに他人のせいにはしない。両親の離婚・別居によって親を失った時も幼児は同様の反応を示す。しかし幼児はやがて成長し、人間は万能ではないこと、いかに願望が強くとも不可能を可能にする力がないことに気づくにつれて、愛する者を死なせてしまった罪悪感は軽くなっていく。
だが、死に対する恐怖心のなごりは遺族の言動の中に日常的に見ることができる。「自分のせいであいつは死んだ。その報いできっと自分は惨めな死に方をするだろう」という復讐を信じている。神の怒りを鎮め、天罰を軽くする古い習慣や儀式こそ、こうした報復を信じている証である。誰かが嘆き、髪をかきむしり、食を断っていたとしたら、それは愛する者を死なせたことへの罰を軽くするために自分に罰を科しているのである。
嘆き・恥・罪悪感という感情は、怒りや憤慨といった感情とあまりかけ離れていない。悲しみには常に怒りが含まれている。だが、誰にも死者に対する怒りは認められず、隠蔽され、悲しみを長びかせ、他のかたちで表れることも多い。しかしながら、その真の意味と根源はきわめて人間的なものである。
同様に母親を失った幼児も、母親を死なせてしまった自分を責めると同時に、もはや要求を満たしてはくれない母親に対して怒りも感じている。死んだ母親は、幼児にとって愛し求めて止まない者であると同時に、悲しい離別をひき起こした憎むべき者でもある。
『死ぬ瞬間―死とその過程について』Eキューブラー・ロス著
さて、喪の作業がいかに苦痛を伴うものか、母親を亡くしたある女性が生の息吹を取り戻すまでの道のりをここに記し、それを教えてくれた彼女に感謝の意を表したい。
彼女の母親が病死したのは、彼女がまだ学生の頃だった。母親の死に際して彼女は無力で何もできなかった。若くして病死したという事実、悲しみに耐えられない祖母や叔母達は、母親を死なせたのはおまえのせいだと、こともあろうか彼女をなじった。祖母や叔母達が本来は亡くなった本人に向けるべき怒りの矛先を彼女に向けたのだ。ただでさえ母親の死の責めを負わずにはいられない子どもの彼女が、その後の人生も独りぼっちで十字架を背負い続けなければならなかったのは言うまでもない。
一人で悲しみを抱え体調を崩し自責の念や孤独感に苛まれながらも彼女は成長し、やがて成人して結婚し、子どもを育て、生の息吹を取り戻したかにみえたが、こころのうちではずっと罪悪感を抱えたままだった。彼女の年が母親の享年に近づくにつれ、母親と同じ病を患って死んでいくという無意識的な報復に苦しみ続け、不当な罰に抗えない生き様が明らかになっていった。病を患った彼女は家族に迷惑をかけないように子どもを夫に託し、離婚したのだ。
その一方、彼女は偶然にも職場の同僚が母親と同じ病を患っているのを知り、同僚が病死するまでの10年以上、その彼女の闘病生活を支え続けた。同僚の死によって彼女は再び生きる意味を失った。彼女にとって同僚は死んだ母親そのものだった。かつて彼女は母親に何もしてあげることができず、そのせいで母親を死なせてしまったという負い目から、同僚の治療への励ましに渾身を尽くすことが彼女の生きる意味になっていたのだった。
ところが、同僚が死にゆくまでの看病の中で、当時子どもだった彼女が死にゆく母親について及ばなかった理解、つまり、娘を残していく母親としての辛さ、死への恐怖や苦痛について同僚を介して知らされることになった。同僚には残された家族、幼い一人娘がおり、まさに同僚の娘は彼女自身で、その娘の成長を見届けることが次の生きる指標となった。
最近になり、彼女は、10年以上に渡る同僚との対峙が、最愛の母親への悲しみや怒りを消化するプロセスになっていたことに気づいたという。母親の死から20年余りの月日を経て、少しずつ彼女は母親の死について喪の作業を進めていた。やがて、彼女は背負っていた十字架を手放し、同僚が亡くなる少し前、彼女の年が母親の享年に届く数年前に再婚した。
今春、私は北国からの彼女の便りによって、切ないほどにひっそりと、しかし力強く息吹く新芽を、悲しみをたたえながら愛でる彼女のまなざしを確かめることができた。それは再生の息吹がどのようなものかを私に教えてくれた。
(M)
2012.06.29