24:おしゃべりの効用と分離感覚 ~日常の風景から③~

日常の風景からこころのはたらきについて考える第3弾です。

ある日、喫茶店でランチをしていると、隣から二人組のおばさま方のおしゃべりが聞こえてきました。すでに食事を終えており、コーヒーもすっかり飲み終えているようですが、二人の会話はますます盛り上がる様子。その声の大きさにつられて聞くとはなしに耳を傾けていると、二人の会話には一定のリズムがあるようです。

まず一人が最近めっきり年老いてきた舅について話しています。扱いにくい舅の大変さや、今後増える病院の付き添いや介護についての悩みはつきず、嫁としての負担は増えるばかりで事態は深刻そうです。もう一人は「それは大変ね」と神妙な面持ちで大きく相槌をうちながら、時に自分の体験も挟みながら聞いているようです。そんな話が途切れた絶妙なタイミングで「それでね」と、自分の番が来ましたとばかりに先日の海外旅行の話に話題が変わります。二人とも海外旅行が好きらしく、一緒にいく共通の知り合いの話で話題は尽きません。その舅の話と海外旅行の話題が、まるで魔法のように入れ替わりながら、一定のリズムで話は進んでいくのです。そのリズムに気がついたとき、まったく違うテーマの話題なのに、よく会話が成立するなあと感心しました。また、カウンセラーの職業柄でしょうか。深刻な話を相手が軽く受け流しているように聞こえて少々気にもなりました。

しかし、考えてみれば、陽気な音楽のかかっているランチ時の会話に、深刻さは求められていません。ふたりはしゃべりたいことをしゃべり、日ごろのたまりにたまった愚痴や思いを吐き出し、それはそれは楽しそうです。相手の話に必要以上に口をはさまず、相手の話に立ち入りすぎず、おしゃべりはものの見事に、リズミカルに成立しています。二人とも聞き上手で話し上手なのです。そういえば私も、おしゃべりの時にはそんな風にしている、と思いいたりました。

こんな軽妙なおしゃべりの際、人のこころの中では、『私とあなたの間に境界線がある』という感覚が機能しているようです。彼女たちは、その境界線から先は、決して立ち入りませんし、今はその時ではないことをわかって、純粋におしゃべりを楽しんでいるようです。相手の話は相手のものだと、自分のことと境目を作って聞いているのでしょう。だからこそ、どんな愚痴でも聞けますし、楽しむこともできます。それは境界を守りながら、触れあっているイメージとも言い換えられましょう。

さらにもう一歩考えを進めると、自分と相手は別物だということにいきあたります。当たり前のことなのですが、改めて考えてみると、案外と自分と相手をしっかり分けて考えていくことは難しいことです。たとえば、人の悩みを聞けば、その人に替わって解決してあげたくなったり、自分の経験や価値観から様々なアドバイスしたくなったり。時には、あなたの方が間違っていると話題にあがっている人の肩を持ち、目の前の相手を非難したくなったり…。

そんなことが原因で相手と険悪なムードになる。そんな経験ありませんか?そういう時は、心の境界線を不用意に踏み越えているときなのかもしれません。

相手の身になって考えることを「親身になる」と言いますし、深入りを表すのに「人の話に首を突っ込む」と言いますね。どちらも形容に身体の部位が使われているのはおもしろいですが、このように、まさに身を捧げているとき、同時に境界線を越えて「こころ」も捧げているのではないでしょうか。

この時は、こころが表面を越えて内部と交わっている時と考えられましょう。それが必要な局面もありますが、侵入したり、されたりといったリスクも伴う状態とも言えましょう。

とはいえ、そんな風に、相手の話は相手のものだから立ち入らない方がいい、なんてあまりにも冷たいじゃない?とも思いますね。ですが、相手の悩みの答えは相手が一番よくわかっていることが多いのです。愚痴や悩みをしゃべっているとき、答えは重々分かっているのですが、自分の話を聞いてほしいだけの時ってありますよね。「触れあいながらも境界線は守っている」、この細やかな感覚がとても大切になります。

こころの調子が悪くなると、この境界線があいまいになっていたり、境界をもてなかったり、境界があることに気づかなくなってしまうことがあります。相手の話に巻き込まれすぎて、身をささげてしまい、精神的に不安定になってしまうなどのこころの問題もあります。時にはそれが長期化し、習い性になってしまうと、自分が何を考えているかの自分感覚が見失われて、他人に全てを捧げてしまうといった極端な状態もあり得ます。

カウンセラーは、そのようなクライエントと心理療法を続けていきます。もし、カウンセラーが人の話を聞くプロフェッショナルだとするならば、その心の境界線を守って聞くことを心がけているからかもしれません。相手のことは相手のこと、つまり、自分とは違うことだと、相手との間に『こころの境界線』を引いて話を聞くトレーニングを続けているということです。もちろん、その線を自覚的に越えていくという局面も生じます。

おしゃべりを弾ませるには、相手の気持ちを受け止めてしっかり聞きながらも、相手にはなりきらないことがポイントです。そのふれあいはそれぞれこころにたまったものを交流させ、むしろ自分の感覚をはっきりと際立たせます。その健康な分離感覚は人を自由に、そして豊かにします。

二人のおばさまがとても満足そうに席を立ったのは、ランチがおいしかったからだけじゃなさそうですね。

(K)

2012.03.02