06: 私が意識していない、わたし
「カウンセリングを受けようか」と思うとき、その人は自分ひとりではどうにもできそうにない思いを抱えています。自分のこころなのに自分ではどうにもできない、落ち込みやイライラが止まらない、“頭”では分かっているのに“気もち”がついて来ない…。どうして人のこころはそんなふうになってしまうのでしょうか。
私たちは普段、自分の身体は自分で動かしているし、思考や行動をコントロールしているのも自分で意識している「私自身」と信じています。ところが案外そうでもありません。例えば、ふとしたときに「本音が顔に出ていた」「知らず知らずに言葉がきつくなっていた」「思わず笑ってしまった」…このように、日常よくある出来事の中に、「私が意識していない、わたし」は現れます。
心理学の言葉で、このような「私が意識していない、わたし」を「無意識」と呼びます。そして人は絶えず、その「無意識」のこころに動かされていると考えるのです。
無意識は、本音とタテマエの「本音」にも似ています。例えば、気の進まない約束のある日に限って、何故だか風邪をひいて行かれない、ということが続いたとします。この場合には「実はあまり行きたくない」という本音が、風邪をひいて行かれない、という体調の変化や行動として現れています。“私”はあくまでも「約束だから行くべきだし、行くつもりなのに」と思っていても、“わたし”は行きたくないというわけです。
そんな理由で体調までおかしくなったりするのかな?と疑問に思われる方もいるかも知れませんが、実際にこの“わたし”=無意識の力はけっこう強力で、本人の意に反してでも思いがけない形で姿を現します。
無意識はもともと小さな子どものように無邪気で、自分が生きることや望みを叶えることにとても忠実です。「そんなことはしたくない」「それじゃあ身がもたないよ」「何だか、うまくいっていないぞ」ということを知らせるため、いろいろな手段で訴えてきます。そしてその訴えが、うつ症状や体調不良、行動の変化として現れてくることがあるのです。症状や悩みごとは、苦しいことでもありますが、サインでもあるというのはこのような視点から言えるわけです。
私があざみ野心理オフィスで行うカウンセリング・心理療法は精神分析の考え方に基づいている面が大きいと言えましょう。精神分析は100年ほど前にヨーロッパで生まれた、人間のこころの理解の方法と治療技法の体系で、「無意識」は精神分析の中で長年研究され、発展してきた視点です。
「無意識」が訴えてくるさまざまなこころの苦痛を十分に受け止め、「どうにもならないもの」を「どうにかなるもの」に変えていくために、そして“私”と“わたし”の出会いによって、こころをより豊かで奥行きのあるものへと変えていくために、私はこの考え方や実践を選んでいます。
(H)
2010.11.01