44:心理療法・カウンセリングが目指すもの
強いて1つだけルールを設けるならば
それはやっぱり自由じゃなきゃいけないっていうルールさ!
(STAY FREE! 竹原ピストル)
「心理療法の目標はなんですか?」「精神分析的心理療法は何をしているのですか?」「カウンセリングはなにを目指しているのか?」と問われることがあります。
それぞれの問いに私なりに答えてきました。
症状が和らぐこと、問題を少しでも解決すること、固有の心理的な課題に取り組むこと、時には「何を目標にするのか」そのものを話し合っていくことから始まることもあります。
これらの問いに普遍的に答えるとなると「人それぞれで一概に言えない」となってしまいます。この答えは正しいのですが答えになっていませんよね。時に正しい答えは何も言っていないに等しくなってしまいます。
「なにを目指すのか?」この問いは私の中にもずっとあります。
なので、今回は現在のところたどり着いたところを、あくまでも暫定的に、とお断りした上であえて書いてみたいと思います。
その答えは「自由」です。言い古されたようにも響きますが、私は心理療法の目標は人のこころが自由になることだと考えています。
精神分析の祖、ジーグムント・フロイトの初期のクライエントにミス・ルーシーという女性がいます。ルーシー嬢はさまざまな症状に悩まされて来談し、フロイトの治療を通して自分の思いを語っていきます。
フロイトとの治療の中でルーシー嬢は、自分が家庭教師先のご主人に抱くさまざまな気持ちに気づいていきます。100年以上も前のことです。雇い主に恋心を抱くこと、その奥さんになろうと目論むこと、そんなことを思う自分をルーシー嬢は強く戒めていました。さまざま曲折があり、ルーシー嬢はかなわないながらもご主人への恋心を持ち続けている自分を認め、治療の最後に「好きなことを考えたり感じたりするのは自由ですから」と言います。それとともに症状から解放されていくのです。(S.Freud ヒステリー研究, 1895)
私はこのルーシー嬢の言葉がとても印象に残りました。
「好きなことを考えたり、感じたりするのは自由ですから」
自由とは「よいことかどうか」とか、「できるかできないか」とか、「かなうかかなわないか」とかとは別に、とにかく自分の中にあるものを感じることです。
泣きたい時に涙を、楽しいときに笑いを、怒りたい時には怒りを、不満を不満として、感じる。また、自分の中に愛情や欲求を、ねたみや嫉妬をそのまま感じることです。
これはもしかすると幼児になるのに近いとも言えましょう。大人の世界で言えばずいぶん我がままなことのようにも思われます。
私たちは人生のさまざまな出来事や事情の影響を受けて成長し、大人になっていきます。そうして、私たちは「我がまま」を言わなくなり、社会と折り合って生きていくように方向付けられます。さまざまな禁止や倫理や理想が人を取り囲み、それに順応しながらこころが大人になっていき、適応していくのです。
こうして長年培ってきたこの自分の意識の枠組みによって、自分の我がままが見えなくなってきます。それぞれの事情によって、そのひとの何かが徐々に閉じ込められ、見えないもの=無意識になっていきます。
そうして、私たちのこころはときに(いや、誰もが本質的には)不自由になっていきます。
心理療法の仕事は、そうした枠組みを一旦取り払って、自分そのものをそのままに探求し、感じることになります。そして、こころの自由を再獲得するのです。
これは時に困難な作業であって、こじれていればこじれているほど独りでは難しくなります。自分が見えなくなっているものを自分独りで見直すことは原理的に難しいからです。
その手伝いが私たちカウンセラーの仕事です。
そうして、とにもかくにも、「我がまま」(これは自分のまんまという意味ですね)に開かれること、我がまんまを自由に感じられること。
怒り、愛情、不安、憎しみ、性、絶望、傷つき、慈しみ、甘え、妬み・・・などが、それぞれ固有の色合いと濃度で混じりながらこころの中にあることでしょう。
「ふむふむ、そうか。本当にわたしはこんなふうに思ってるんだなあ。」
こうして、思う存分自由になり、自由なこころの空間を持つようになると、次の道は自ずと立ち現れてくるのではないでしょうか。
自由になること、これが心理療法の目標です。
・・・・・うーん。待てよ。自由になっても、どうしてもあきらめきれず苦しむこともある。自由に感じてむしろこころの中の矛盾に苦しむこともある。自由に感じ、そのあとに断念したり、勇気をもって選択していくことが最終目標なのか?自由はそのための一つの段階なのかな?
うーん。さてさて。うーん・・・・。
問いと思案は続きますが、今回はここまでといたしましょう。
(岩倉)
2013.12.07