34:怒ることで起こること その3

綴りようのない切実を切実という。綴れる程度の切実は切実とはいわない。

すべては“切実”でしか変えることができない。

だから例えば、歌で世界を変えることはできない。歌で人を変えることはできない。

世界を変えることができるのは、世界が抱く綴りようのない切実だけ。

人を変えることができるのは、人が抱く綴りようのない切実だけ。

『たとえばヒロ、お前がそうだったように』 竹原ピストル

その3になります。あれこれ考えを巡らせているうちに迷路にはまり込んでしまったようなので、気を取り直して、シンプルにまとめます。

行き詰まって自分を見失っているとき、次の一歩がわからなくなり途方に暮れているとき、人は結局裸一貫の自分自身がどうなのか、どうしたいのかということが問われます。

そのとき、人はみずからの今の感情の色色(いろいろ)に触れることが大切である、というよりむしろ不可避であると思います。

「怒ることで起こること」で述べたかったのは、中でも取り扱いが難しい“怒り”という感情の色にしっかりと一度触れないわけにはいかないということです。怒りは、抜き差しならない自分自身の感情だからです。触れるというのは、すべて人のせいにするでもなく、自分の中に溜め込むでもなく「真に怒ること」、そして、真に怒っていることを自ら認めることです。

くすぶり続ける怒りは、ぐずぐずと癒えないかさぶたのように人を苦しめ、そして相手を許すことができないという形で人を束縛します。

一方、自分に認められた怒りは、それを抱えてどうしていくかを考えさせ、次の一歩を踏み出す原動力にもなり得ます。

そのままにできない怒りに、声を上げ、行動することになるかもしれません。

抱えているうちに全く違った新しい感覚や視野が生じるかもしれません。

また、「怒ることで起こることその1・その2」で述べたように、私はつながりがあるからこそ生じる自らの怒りに触れなければ、相手が大切であること、愛していること、にも触れられないと感じています。(コラム02「幸せと不幸せと口内炎」でも触れた心の全体性と対比感覚です。)こんなにも怒るぐらい相手を(他者を)求めている自分に気づくのです。

怒ること、そしてその周辺にある負の感情は、負担のある感情です。こころに容れて保ち続けることは難しく、人に嫌われるのを恐れたり、感情自体に近づくのを恐れたりして、先延ばしや発散をして見失いやすいものです。でもそうやって見失いやすいものだからこそ、それでも生じる怒りは正真正銘その人自身のものなのです。

怒りを味わい続け、それでも相手を損なわず、つながり続ける。怒り・憎しみと対になる“愛情”という両極を体験し、抜き差しならない自分を見据える。そのぎりぎりを、ぎりぎりに通過して立ち上がった時、次の道が見えてくる。

私たちは、行き詰った時、この困難な作業を(それゆえに)できるかぎり安全に、自由に、勇気を持って行わなければならないのです。

“怒ること”で“起こること”は、その怒りが導き手となって次の一歩を踏み出すことだと考えています。

(岩倉)

2013.02.01