35:山がいつもそこにあるように…

毎朝大通りの向こうにそびえたつ山を見ています。今は冬なので空気が澄んで山の稜線がはっきり見えることが多いのですが、天気によってはうっすらとしか姿を見せないこともあります。ですが、「山は今日も見えるかな?」と思いながら歩き、ぼんやりとでも姿を確認できると「山、おはよう」と思わず挨拶をしてしまいます。もちろん返答はありませんが。

姿が確認できないときは、永遠に消えてなくなってしまったのではないにもかかわらず、なぜだかがっかりし、「また明日・・・」と心の中でつぶやいてしょんぼりしながら駅に向かうのです。

山はいつも山としてそこにある。その変わらない風景が私を安心させ、一日の始まりとなります。山が山として変わらず存在することに私がどこか救われる感じがするのはなぜなのでしょうか。

人は変わらない何かを糧に生きていくことがあるのではないか、と思います。

それは目に見えることでもあるだろうし、普段は気づくことのないものかもしれません。また、失って初めて気づく場合もあるでしょう。たとえば、家に帰ったとき温かい食事が用意されている。それは普段の生活の中では当たり前ですから、そのことに価値やありがたみを実感することは稀かもしれません。しかし、その生活が変化して初めて思うのです。それがいかにありがたくて、自分の礎となり、自分を支えていたか。

カウンセリングは通常、同じ曜日、同じ時間、同じ場所で会うというルールに則っています。これはクライエント‐カウンセラーが出会うために便宜上必要な約束ではなく、毎週、同じ時間、同じ場所で、ある特定の人と会い続ける、ということが相談者の方の気持ちを抱える器(容れもの)となるといわれています。

来談者の方がうつうつとしているときも、憎しみにあふれているときも、少し陽気になって満足を感じているときも、カウンセリングの場と時間は同じリズムで変わることなく提供される。次に来た時も同じように提供され続けるということが保障されているとき、来談者の方はいったんこころの扉を開け、そしてそっと閉め、カウンセリングの場を後にできるのではないでしょうか。

山のように寛大なたたずまいは難しいですが、来談者の方にとってそのような役割を担い続けられるようにありたいと思っています。

(T)

2013.03.01